イヤで、それからは、どんなにケンカに負けたときでも、泣いて帰ることだけは二度としなくなっていた。 そのせいだろうか、それ以来、私は人前で涙をみせたことなど、一度もなかったと断言できる。

もちろん、その後の人生では、仕事でもプライベートでも、泣きたいと思うようなことはたくさんあったが、人のいるところで涙を流すことが決してなかったのは、この父が私をそんなふうに鍛えてくれた賜物だったのかもしれない。 父が死んだときでさえ、私は人のいるところでは泣かなかったのである。
また、私か人1倍、負けず嫌いの性格をもつようになり、その後のさまざまな困難を乗り越える忍耐力と行動力を身につけることができたのも、この父なりの厳しい「教育」のおかげだったのだろうと思っている。 父がこの世を去ったときの話は後で書くつもりだが、あるいは、父は自分が早く死ぬことを、心のどこかで予感していたのではないだろうか……そんなことを、最近になって私は、ふと考えるようになった。
父が亡くなったのは、私がまだ9歳のときである。 わかっていたからこそ、自分が生きているうちに、長男である私を、母や妹たちの面倒をしっかり見ることができるような1人前の人間に早く育て上げようという気持ちが、父の意識の中にあったのではないだろうか。
父は日中国大陸で起きている戦争のことも、新聞やニュース映画などで充分に知っていたはずである。 あるいは、次第に軍人が肩で風を切って歩く時代になっていくことを、皇居に出入りする御用達の商人という立場から、肌で感じ始めていたのかもしれない(昭和20年8月15日の敗戦の情報も、父はその前日か前日には知っていた)。
そんな時代の雰囲気が、若い日に経験した関東大震災の記憶とも結びついて、父は自分の死を身近に感じるようになっていたのではないだろうか私の思い込みかもしれないが、今の私はそんなことを本気で思うようになっている。 また、その思い込みが正しいとすれば、私は自分なりに、父の期待に応えられるような人生を歩んできたのではないかと自負することもできるわけだ。
それからの私の人生は、いかに母や妹たちが安心して暮らしていけるかということを第一に考えたものだった。 これらについては、これから順次、書いていくが、今年で九十7歳になる母にどの苦労はかけなかったつもりだし、2人の妹も、私か父親替わりとなって、それぞれしっかりした家に嫁がせることができた。

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